『人の不幸を救う良寛の人柄』
- 橋元雄二

- 4 日前
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当時は冬に夫が出稼ぎに出て帰ってこない者も多くいたそうである。なので子連れの女
乞食も結構いたそうで、そこで良寛に乞食が物貰いに訪れて来る事も多かったと言う良寛も上げる物がないと決まって村の庄屋であった良寛の禅の修行者でもあった、牧ケ花の解良淑問に手紙を持たせた。「夫は出稼ぎに行って帰って来ません。残された妻は幼い子供を抱え困っているので助けてあげてほしい。」と依頼状を渡して庄屋さんに持って行くようにと伝え助けてあげたことがある。当時はもうそうなると乞食になるしかなかったのです。こういう人は「水飲み」と呼ばれ、農地がない小作人は農作物も作れない農民の実情です。良寛はこういう人々と同じ地平で生きていたのです。またこんな手紙もありました「ハイ今日は、雑煮の味噌を ひとかさ下され候。ハイサヨウナラ」 :良寛: あるいは、いんきんたむしが再発したので、「貝の絵の書かれたものを御恵投くだされたく候」:良寛: というものまであります。つまり昔は塗り薬などは二枚貝に入っていました。つまり塗り薬の事を言ってます。当時は村人同士で助け合うことが普通だったのでへりくだった文言八おべっかいなども一切ないのが良寛流でしたが村人、庄屋であっても同じ文言であったのは良寛の人徳と人を身分で決めつけない人であったと思う。






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