top of page
![]() | ![]() | ![]() |
|---|
検索
All Posts


『来時の道を忘れる』
良寛が托鉢に「出かけた時の話である山道を托鉢しながら登って来たのであろう。山の頂で休息された。さて休息も終わり、再び托鉢する時に、良寛は、登って来た道に戻ってしまった。そして、ある家に托鉢した。良寛の姿を見た家の者が「さっき来たお坊様じゃ」と言ううと良寛は、そこで初めて気がつき、帰って行ったという。前にも書いた五合庵の来客が来た時夕食をおいしいとろろご飯を食べさせるのに里に降りて行ってとろろ芋を貰いに行った時も芋を貰いに行った家でごちそうになり、すっかり客人の夕食の事を忘れた事があった。 良寛は夢中になったり、月が綺麗な日にはよく松の木の根元なので月を見ながら他の事を忘れる事が多かったそうである。

橋元雄二
2 時間前読了時間: 1分


『わしの食事はすませた。』
ある日、五合庵に客が会った。良寛は「夕飯はとろろのご馳走をしましょう」と言って庵を出て行った。しかし良寛は一向に帰って来ない。客が手持ち無沙汰に待つていると、やっと夜半になって帰って来た。そして満足そうな顔で、「あなたはまだおられましたか。わしはつくね芋をもらいに山をおりましたが、ちょうど夕飯に招く者がおりましたので、ご馳走になって来ました。」と言うだけでぬけぬけと客の夕飯のとろろ飯の事は何も触れなかった。 仕方なく、呼ばれた客は空腹のままで帰って行った。 どうも良寛は人との約束などすぐに忘れてしまう傾向があったようだ、昔の事で見聞きした記憶力には優れている良寛だったのだが度々このように忘れることが多々あったようだ。

橋元雄二
2 日前読了時間: 1分


『人の不幸を救う良寛の人柄』
当時は冬に夫が出稼ぎに出て帰ってこない者も多くいたそうである。なので子連れの女 乞食も結構いたそうで、そこで良寛に乞食が物貰いに訪れて来る事も多かったと言う良寛も上げる物がないと決まって村の庄屋であった良寛の禅の修行者でもあった、牧ケ花の解良淑問に手紙を持たせた。「夫は出稼ぎに行って帰って来ません。残された妻は幼い子供を抱え困っているので助けてあげてほしい。」と依頼状を渡して庄屋さんに持って行くようにと伝え助けてあげたことがある。当時はもうそうなると乞食になるしかなかったのです。こういう人は「水飲み」と呼ばれ、農地がない小作人は農作物も作れない農民の実情です。良寛はこういう人々と同じ地平で生きていたのです。またこんな手紙もありました「ハイ今日は、雑煮の味噌を ひとかさ下され候。ハイサヨウナラ」 :良寛: あるいは、いんきんたむしが再発したので、「貝の絵の書かれたものを御恵投くだされたく候」:良寛: というものまであります。つまり昔は塗り薬などは二枚貝に入っていました。つまり塗り薬の事を言ってます。当時は村人同士で助け合うことが普通だったのでへりく

橋元雄二
4 日前読了時間: 2分


『良寛の書が有名になるにつれて』
良寛の書をほしがるものがものすごく増えてあの手この手で良寛を引き留めて書をかかせようとする者が増えて良寛がその本音を書いた事がある三島郡の寺泊町の豪商、伊勢安の主人も良寛の書をどうしても欲しかった。ある日托鉢で通りかかった良寛を、無理やり家に家に招き入れた。「書くまでは帰さない」と立派な金屏風を出して来た。良寛は口に出して書きたくないと言えばいいのだが良寛はどこも脅迫めいた言葉でいつも脅されるようになって断わり切れない気の弱さもあったのだろう良寛は仕方なく筆を執り即座に「 いやじゃ いやじゃ いやじゃ いやじゃ と書き連ねて唖然とする家人を尻目にさっさと帰って行ったという。良寛の本音がそこにあったのではないだろうか?良寛は自分の気分がのらないと筆を持ちたくなかったので本当に思った事を素直に書いたんだと思う。

橋元雄二
12月14日読了時間: 1分


『牡丹泥棒』
良寛は、漢詩や和歌にも優れていたが、特に草書に秀で、その筆の動きは、神業のようであった。しかし、揮毫を頼まれても軽々しくは承諾しなかった。ある里の富豪が庭に牡丹を植えていた。毎年、花の季節になると良寛も鑑賞に出掛けたが、必ず帰りには花を折って持ち帰った。富豪は、以前、良寛に書を頼み、良寛も承諾したのだが、未だに手に入れずにいた。そこで一計をめぐらした。使いの者を送り、「牡丹の花の見頃ですよ」と良寛を誘った。良寛は慌てて出かけて行き、例年と同じように数本の枝を折った。それを見ていた富豪はわざと良寛を怒り良寛を室に閉じ込めそして硯と筆をその中に置き、見張りの者に「書を書けば許すが、さもなければここから出してはならんぞ」と大声で言いつけた。 そこで良寛は、「論語」にいう、(道理にかなったことで人は裁かれることはあるが、道理のないことで裁かれる事はない)と言う意をこめた俗謡を書いた。これを見た富豪は、ただぼうぜんとするのみであった。良寛は手を叩いて喜び帰りに牡丹の花を抜いて持って帰っていったそうである。

橋元雄二
12月11日読了時間: 1分


『良寛の兄弟について』
良寛の兄弟は7人いたのですが良寛は長男で実家の名主の家督を弟の由之に譲り、良寛は、出家してしまいました。残された良寛の父(以南)は婿養子で仕事もせず俳句ばかり詠んで仕事にも名主の立場に胡坐をかいていたので橘屋も傾き始め、良寛の弟の由之は非常に自信家でそれが災いして地元の人望もなくトラブルを起こしてばかりで代官所から、家財道具も取られ、名主の座も剥奪され所払いで名主の橘屋はここで潰れてしまいました、由之は後年は見附に身を隠した生活をしてたようです.三男の 香は、字を澹斎(たんさい)と号し、非常に博学多才でした。京都へ上り、禁中学師の菅原長親卿の学館で学び、最終的には学頭を務めるほどでした。宮中での詩会にもたびたび出席していたそうで、相当優秀な方でした、残念ながら、香(かおる)は壮年で亡くなっています。寛政10年(1798年)、良寛さんが41歳の時、3月27日に32歳という若さでこの世を去りました。円明院の過去帳には病死と記されていますが、別の記録では良寛の父以南と同じく桂川に身を投じ自死したとも言われています。良寛さんには他にも、末弟の宥澄(ゆうち

橋元雄二
12月8日読了時間: 2分


『亀田鵬斎と良寛』
亀田鵬斎は江戸の儒学者で、有名な書家でもあり文人で江戸ではかなり有名な人でもあり、亀田鵬斎 は江戸幕府の「寛政異学の禁」に猛烈に反発し江戸幕府より江戸所払いとなつたのでその際信濃経由で越後と佐渡に遊学に来ていた。良寛の住んでいた五合庵の近くの出雲崎に来た時、亀田 鵬斎が出雲崎で、論語の講義をしていると、その席で大笑いする者がいた、鵬斎がむっとして、みてみると垢染みた衣を着た良寛であった。 孔子の話の郷党編の話の中で良寛が 鵬斎の解釈には 間違いがあると異議をとなえたその論語の話の解釈の意味に良寛は 鵬斎に向かって 「嘘は言うな」と指摘すると、 鵬斎は良寛が只者ではないと感じ講義が終わり鵬斎は良寛のいる五合庵まで、ついて来たという。その際に良寛が、亀田鵬斎の論語の過ちや、運筆の運び方を指摘しながら教えた。鵬斎は、大いに良寛を尊敬し、書法の秘訣を悟ったという。亀田鵬斎の論語の過ちや、運筆の運び方を指摘したりして。鵬斎は、大いに良寛を尊敬し、書法の秘訣を悟ったという。ある日夕立で亀田鵬斎がびっしょりになった姿の鵬斎と出逢った。その姿を見て良寛が「...

橋元雄二
12月3日読了時間: 4分


『新潟県村上市に眠る即身仏』
仏海上人は1828年(文政11年)に村上市で生まれ、山形県の湯殿山で修行を重ねた。62年(文久2年)に即身仏になるための木食行を始め、64年(元治元年)からの3年間は山形県の湯殿山仙人沢に籠もって修行した。 一方、村上藩主の祈願寺として繁栄していた観音寺は、明治に入ると経済的基盤がなくなり没落。困った当時の住職が仏海上人に再建を懇願したところ、仏海上人は資金を集め庫裏を再建した。仏海上人は下山後、観音寺の住職となり、約30年にわたり村上市で布教活動や神社仏閣の再興、貧民救済に尽力したという。その後即身仏になる事を決意し観音寺の境内に自ら即身仏となりました。 1868年に日本では即身仏は禁止となりました。

橋元雄二
12月1日読了時間: 1分


『良寛の母の死』
母、(秀子)の死を知ったのは良寛26歳であった。良寛は故郷に帰らず、ひたむきに倉敷の、玉島という修行していた師である国仙和尚は修行に励む良寛を見かねて翌々年に、東国、巡錫という触れ込みで、良寛を伴い越後におもむいた。このため良寛は,天明(1785年四月二十九日、出雲崎の円明院で行われて母の三回忌追善に加わることが出来た。いかに仏の道の道にいそしんでも、人一倍情にもろい良寛にとって、母を慕う思いは格別だった、らしく、後年、出雲崎の海岸に立つて、佐渡を見るたびに、母をしきりに連想し、ついに佐渡そのものを母と認めて、次の歌を作っている。「たらちねの 母がかたみと 朝夕に 佐渡の島べを 内見つるかも いにしへに かはらぬものは 荒磯海と むかいのに見ゆる 佐渡の島なり』と佐渡の相川地区と出雲崎の良寛の生誕地にある良寛堂の石碑に書かれている。

橋元雄二
11月25日読了時間: 1分


『席順にはこだわらない』
ある家に客があった。そこへちょうど良寛が尋ねて来たので、家人が、「良寛様も良ければ一緒にご相伴下さい」と言われ良寛はそのまま座敷に通り、一番上座の正客の席に付いた。これには、家人も困ってしまったという。 良寛はもともと人間には、身分の違いなどや上下関係などは一切なく膝をつき合わせてしまえば席順なんかどうでも良く身分で人を見ることを嫌いまったく気にしない人であった。

橋元雄二
11月21日読了時間: 1分


『忘れ物対策』
良寛は前にも書いたと思うが記憶力は大変優れていたのだがどこかの家に寄るたびに忘れ物をする人だった。誰かが、良寛さん「持っている物を書いておいて、お帰りの時に読まれてはいかがですか」と教えた。良寛はそれは妙案だと思い、それからは持ち物を紙に書いておき、帰る時に必ず読まれた。その書き付けは今もあり、頭巾,手ぬぐい、鼻紙,扇子などと書かれている。良寛は記憶力は優れていたのだがどこか抜けている性格だったようです。

橋元雄二
11月14日読了時間: 1分


『南天の木』
赤い実を付ける 南天は「難を転じる」という意味から、鬼門(北東)や裏鬼門(南西)に植えると良いとされています。特に白実南天は北東、北、北西が吉とされます。 また、南天のど飴に含まれる南天実乾燥エキスは、「o-メチルドメスチシン」という成分を主としています。この成分が、下記の働きでのどの不調にアプローチします。 気管支を広げる 脳の咳中枢に作用して咳を鎮める これらの効果により、咳や声がれ、のどの痛みや腫れを和らげる効果があるそうです。 10月ごろ に実は赤く熟し、翌年の春まで残ります。

橋元雄二
11月8日読了時間: 1分


『良寛のこだわり』
良寛の書が欲しいと高価なお礼の品を持つて来て頼んでも書を書かない人であった。 良寛の書を欲しいと思えば、まず手毬を贈ってご機嫌を取ると良寛は喜んで書を執って書いたそうである。良寛は子供達と手毬することを好み,どのような珠玉のような高価な品であっても興味を示さなかった。ある村人が尋ねた事があった。「良寛は子供と無心に遊んでいる事でさえ禅の修行に通じる物があると」答えたそうである。

橋元雄二
11月3日読了時間: 1分


『良寛のお布施』
良寛は托鉢をする時、一軒の家を通り過ぎてしまうと、その後から通り過ぎた家の者が布施をしようとしても引き返さなかった。そこで村の人達は、予め時間を計っておいて、道にいる良寛を自分の家に連れて来て布施をした。そうすれば喜んで布施を受けた。しかし良寛は、道で貧しい人を見ると、鉢の中のお布施のお金はもちろん、自分の来ている着物も脱いで与え、後ろも振り返らずに行くのが常であったそうだ。

橋元雄二
11月1日読了時間: 1分


『佐渡ケ島行き佐渡汽船カーフェリーの出航方法がおもしろい』
新潟市の佐渡汽船のカーフェリーの船着場は信濃川沿いに作られており通常は川の上流側に船首が向いて停泊しており出港の際は信濃川に船を大旋廻して船首を日本海側に向けてから出発します。 佐渡汽船カーフェリー の 大 回頭出港 の様子は you tube でご覧いただけます。なかなか見る風景ではないの是非見られてください。私もこの大旋廻の様子を初めて見た時には非常に驚きました。

橋元雄二
9月9日読了時間: 1分


『佐渡の稲作と棚田の歴史』
佐渡での稲作の始まりは、約2000年前からだとされ、佐渡中央部の湿地帯を中心に行われていました。17世紀に入ると相川金銀山が発見され、ゴールドラッシュとなったことから、全国各地から冨を求めた人々が佐渡をめざし、入口は爆発的に増加しました。急増した人口の食糧供給のため、新田開...

橋元雄二
9月3日読了時間: 1分


『終戦記念日を迎えて』
私の父はゼロ戦を作っていた、当初のゼロ戦の性能は素晴らしかったんだとゼロ戦の話をするとその性能は素晴らしかったと父はこれでもかと言うほどゼロ戦の性能の事を話してくれた。父の実家は鹿児島の知覧に近い所に住んでいたこともあり、特攻隊のゼロ戦の整備を行い若い世代の人たちが志願し特...

橋元雄二
8月17日読了時間: 2分


『矢沢永吉氏と偶然に合う』
ずいぶん前の話である。ホテルで商談が終わり帰ろうとしてエレベーター待ちしている時である黒ずくめの人がぞろぞろとエレベーター前で待っていたので、それ系の人達なのかと内心ビクビクしていたエレベーターが待つている階に止まるとその後ろからエレベーターに乗る人物が中に入って行ったエレ...

橋元雄二
8月7日読了時間: 2分


新潟県小千谷の片貝大花火
片貝まつり(かたかいまつり)とは新潟県小千谷市片貝町で開催される秋祭り。 花火大会、なかでも正四尺玉の打ち上げで全国的に知られる。四尺玉の打ち上げ高度約800m、開花直径約800m、この四尺玉の直径約120cm(約4尺)、重量約420kg、打上用の煙火筒は高さ5.2m...

橋元雄二
8月5日読了時間: 1分


『佐渡薪能のご紹介』
世阿弥 室町幕府の3代将軍足利義満の寵愛を受け、能楽を大成させた世阿弥は、 6代将軍足利義教の怒りにふれ 、1434年に佐渡に流されました,どうも、理由は 世阿弥は結局、実子である元雅に観世大夫の地位を継がせたが、将軍・義持亡き跡を継いだ義教は、音阿弥の方を寵愛しており、絶...

橋元雄二
6月16日読了時間: 1分
bottom of page


