良寛は十五歳になる前までを「栄蔵(えいぞう)」15歳の元服になってからは「文孝」と呼ばれていました。文孝は光照寺で修業していた文孝ニ十ニ歳の時に倉敷の玉島の円通寺住職の大忍国仙和尚が越後の出雲崎の高台にある光照寺に立ち寄った際に国仙和尚より得度を受けて、正式の僧として頭を削り、「大愚良寛(りょうかん)」という僧名をもらいました。それから良寛と名乗るようになりました。国仙和尚が倉敷の円通寺へ帰るとき、良寛は供をして従い、長野の善光寺を経て備中(倉敷)の玉島の円通寺へ戻り十年程修行を開始しました。その後印可の偈(今でいう免許皆伝)を国仙和尚から授かりましたが国仙和尚が亡くなり圓通寺の住職の争いごとを嫌った良寛は円通寺を離れ諸国行脚の修行の旅に出て、約十五年後に新潟の国上山の五合庵に住むことになる。
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