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『良寛の母の死』

  • 執筆者の写真: 橋元雄二
    橋元雄二
  • 11月25日
  • 読了時間: 1分
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母、(秀子)の死を知ったのは良寛26歳であった。良寛は故郷に帰らず、ひたむきに倉敷の、玉島という修行していた師である国仙和尚は修行に励む良寛を見かねて翌々年に、東国、巡錫という触れ込みで、良寛を伴い越後におもむいた。このため良寛は,天明(1785年四月二十九日、出雲崎の円明院で行われて母の三回忌追善に加わることが出来た。いかに仏の道の道にいそしんでも、人一倍情にもろい良寛にとって、母を慕う思いは格別だった、らしく、後年、出雲崎の海岸に立つて、佐渡を見るたびに、母をしきりに連想し、ついに佐渡そのものを母と認めて、次の歌を作っている。「たらちねの 母がかたみと 朝夕に 佐渡の島べを 内見つるかも いにしへに かはらぬものは 荒磯海と むかいのに見ゆる

佐渡の島なり』と佐渡の相川地区と出雲崎の良寛の生誕地にある良寛堂の石碑に書かれている。

 
 
 

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