良寛は18歳で突然姿を消し出雲崎町から岡山県・倉敷市の玉島の円通寺の国仙和尚の元で修業していた、9年間ほど圓通寺でずーっと見ていた国仙和尚は良寛を高く評価しており良寛に禅宗で師僧が弟子に与える事を証明する印可を授けて三年後の1791年三月に国仙和尚が亡くなられた。国仙の後を継いだのが即中という住職であった、この即中は円通寺の復興を名目で権門とのつながりをを深め、進んで富豪の家に出入りしていた。良寛の目には、それは我慢ならない堕落と映ったのであろう。もはや即中に頭を下げて、その世話になることは耐えられなかったに違いない。良寛は決然として、住み慣れた円通寺を後にし、さらに正覚を求めて諸国遍歴の旅を選んで旅立ったのであった。この頃より良寛は貧しさにこそ本質があるという事をより確信したのではないか。
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