「不生不滅明けて鴉の三羽かな」秋山真之の辞世の句
- 橋元雄二
- 2019年11月23日
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更新日:2月15日
今NHKスペシャルドラマで「坂の上の雲」の再放送を見てる方もおられると思う、これは日露海戦で東郷平八郎の参謀を努め対馬の沖合いにてバルチック艦隊を打ち破った秋山真之の辞世の句である。51歳で、盲腸炎の悪化にて小田原で亡くなりました。真之がアメリカ留学に渡った際、正岡子規は、真之に送別の句を新聞に掲載しました。「君を送りて 思ふことあり 蚊帳に泣く」と詠んでいます。盟友・真之がアメリカ留学に渡った際に子規は、東京 ・ 根岸にある 「子規庵」 におり、病床の子規が毎日眺めていたと言われる小さな地球儀がありました。そしてその地球儀の北米大陸には、青い鉛筆で縁取りがされていたそうです。それからおよそ2年半の歳月が流れ、米国滞在中の真之から届いた年賀状には、次の句がしたためられていました。 好奇心旺盛な子規は、米国に留学した親友の真之を羨ましく思うと同時に、病に倒れたわが身を嘆いているだろう。そんな愛すべき子規に宛てた真之からのエールの句でした。「遠くとて 五十歩百歩 小世界」はるか遠くに感じる海外の国々も、手を伸ばせば届く小さな世界にすぎない…と病床の子規を元気づけたのですが子規が脊椎カリエスの病因で、1902年に僅か34歳の若さで亡くなってしまいました。死の前日に絶筆三句を残して翌日の午前1時に亡くなり、早朝妹の律が見にいった時には静かに息を引き取っていたそうです。
「糸瓜咲て痰のつまりし佛かな」
「痰一斗糸瓜の水も間に合はず」
「 をとゝひのへちまの水も取らざりき」
子規の葬儀の日、アメリカ留学から既に帰っていた真之は、紋付羽織袴に威儀を正し出向いたのです。でも既にお棺は子規庵から出たばかりで間に合いませんでした。真之は葬列に深々と頭を垂れ、一礼すると直ちに引き返したそうです。武人として一刻も早く名をあげ、仕事に戻ることが盟友の死にとって強かに供養になるのだと確信したのでしょう。子規の死から二年後、1904年日露戦争が勃発。真之は東郷平八郎の軍事参謀の一人として抜擢されます。そしてあの1,905年に怒涛のような日本海戦のバルチック艦隊撃破の立案に貢献し、その上、例の名文句「天気晴朗ナレドモ波タカシ」、真之が打ったこの電文は緊張感の中に、どこか風雅を感じさせる名文として永く世に語り継がれていますが、実のところこの電文で波タカシは当時3m以上の波では水雷艇が使えず作戦の変更を余儀なくされ真之も心の中は穏やかなものではなかったはずです、しかし日本艦艇の三笠、率いる見事な連携でなんとか形勢不利と見て逃げ延びようとしたバルチック艦隊を壊滅させたのです。若き頃、子規と詩歌に熱中したその心は、軍人となった真之の心にも生き続けていたのでした。鴉(からす)三羽の三人とは誰のことでしょう。真之と子規は間違いないのですが、真之の実兄・好古ではなく、実はもう一人彼らの間に一緒に松山から出てきた親しい友人がいました。青雲の志を立て、四国・松山からともに上京し、一緒に東京大学予備門に通っていた清水則遠のことです。だが当時、立身出世を望んで数多くの若者が東京に集って来ていましたが、仕送りなどの経済的な理由で、病気になって死んで逝く若者が多かったようです。旧松山藩主が若者あてに建てた寄宿舎・常磐会に入寮していましたが、ここは三人にとっては天国でした。座り相撲をやったり、歌留多取りに熱中したり、野球(子規の本名である升=のぼるに当ててノボールと訳した)は子規が日本で始めたものでしたが、番付からすると、どうやら真之のほうが上手かったようです。すべてに番付があり、他愛無い遊びの中に将来何を為すべきか考えに考えた一つの作戦だったのでしょう。そうしてそれぞれ熱い青春を謳歌しておりました。子規が纏めた人物録に「郷党人物月見評論」がありますが、真之は才智の多い人物と。本人は将来名声を得る人物と記載されています。その後の二人をどことなく暗示するかのような内容でありましょう。だがご多聞に漏れず、清水の実家から仕送りが滞り、薬ひとつ買えなかった実情でした。子規たちが上京したのは明治16(1883)年でしたが、その三年後(1886)の4月、突如清水則遠は栄養不足から来る脚気が悪化し20歳の若さで心臓麻痺で亡くなって逝ったのです。その時の子規の落胆、というより錯乱ぶりは尋常ではなかったようです。真之だって相当ショックでしたが、「のぼさんしっかりおしよ」と懸命に子規を励ますのでした。清水の葬儀を営む二人でしたが、子規は遺族に対し、長々とした弔文を送ります。何と長さ7メートルもの長文で、子規の記録にはこれほど長い手紙は一切存在しません。お塔婆や墓標の形や葬儀の時のお棺のことなど克明に描かれた絵にも文と一緒に書き、流麗にしたためた弔文でした。子規達は 遺族に対して誓っています。「ご令息の名をあげることを今後の自分の目的にするつもりです。そのためにはまず第一に僕の名をあげることにつとめ、命をかけようと思います」。清水則遠の死によって、秋山真之、正岡子規と清水則遠の志ためにも断固たる立身出世への決意をしたのでした。ですから三羽鴉とは、これら三人の友人たちのことを指して言っているのです。 友人の死の志を無駄にしないと心に誓った、正岡子規は俳人として名を残し秋山真之は軍人としての決意が後の日本海海戦で作戦参謀になって作戦の指揮をとり真之らによる作戦で1,905年の日本海海戦でのバルチック艦隊を打ち破る勝利は日本の近代国家への道筋をつけたと言えるのでしょうこの際の敵艦隊との攻防などの作戦は数多く書物などにも残っているので興味があれば読まれてください。ただこのロシアのバルチック艦隊を打ち破った真之は勝利に酔うどころか、敵味方関係なく、彼の指揮の元、多くの人命が無残に失われたことに衝撃を受け、軍人になったことを大いに悔やんだそうである。後に真之は仏門の道へ行こうとしたが皆に止められ断念したが戦後真之の長男が父の想いを受け継ぎ仏門の道に入ったそうである。実の兄、好古は満州の野で世界最強の騎兵集団を破るというただ一点に尽きている」と賞された。日本騎兵の父と呼ばれている晩年は酒好きがたたり糖尿病となり足を切断してしまったが後継者達を育成するために松山北中設立に尽力したそうである。71歳で亡くなられた。戦艦三笠が当日に打った電文は「天気晴朗なれども波高し」は有明な言葉である。

戦艦三笠
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