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執筆者の写真橋元雄二

「人の子の遊ぶを見ればにはたづみ流るるなみだとどめかねつも」

更新日:2021年4月16日



意味は(よその家の子どもが元気に遊んでいるのを見て,亡くなった自分の子どもの事が思い出され、流れる涙が抑えられないありさまだよ、)と詠んでいる良寛には子どもがいなかったはずだ。しかし、友人の原田正貞の子供が四人が天然痘で亡くなった時に涙を流さずにはいられない。と言っている。実の親の原田正貞のほうがもっと悲しいはずと思うのが普通なのに、良寛はなぜそこまで踏み込んでと詠んでいるのだろうか。「子供が好きだから」というだけでは説明の付かないものがあったようだ。この歌が詠まれたのは文成元年〈1,818年〉頃でこの頃日本各地で天然痘が猛威を奮っており、たくさんの多くの子どもの死者が続出していたそうである。その40年後に(1858年6月5日)、エドワードジェンナー開発の 牛痘法緒方洪庵の天然痘予防の予防ワクチンの活動を幕府が公認し、最初の頃は天然痘ワクチンの予防接種を受けると「牛になる」というデマが広がったたりもしたが牛痘種痘を免許制とした。(そこで幕府は免許制を導入することで天然痘が終息していつた。)当時、良寛は普段から親しくしていた原田正貞家の子ども四人が天然痘で相次いで亡くなってしまった。これを知った良寛は、友人の原田正貞に当て歌五首を送った中の一つが上に書いた歌である。ここまで良寛が子どもに思い入れた訳にはこういう説がある。当時良寛が出家する前の名前を(栄蔵)といい、実家の橘屋という町名主見習い中の頃(現)新潟市の関根家の娘を嫁にもらったという説がある。栄蔵(良寛)の父以南や栄蔵の弟など遊郭に入り浸っていたそうである。栄蔵の町名主の台所事情は遊郭に入りびたって入れば金がなくなるのは当然で切迫した借金せびりで、嫁を責め立てた、そのために関根家の娘は実家に戻ったという。そのとき娘は妊娠していた、その後、女の子を産んだが、母子ともに早逝したそうである。あくまでも説ではあるが出家して良寛になる前に生まれたその女の子は良寛の実子であり(よその家の子どもが元気に遊んでいるのを見て,亡くなった自分の子どもの事が思い出され、流れる涙が抑えられないありさまだよ、(亡くなった自分の子どもを思いだされ)とはっきり歌の中でを詠んでいる。友人の原田正貞の四人の子どもが亡くなってしまった時に送った手紙の歌の内容と辻褄が合うのである。推測でしかないが、この頃の良寛を記する書物も色々説がありはっきりしていないがもしそうでなければ(亡くなった自分の子どもを思いだされ)と歌を良寛は詠んだだろうか?あくまでも説なのでこれが原因で栄蔵は町名主の地位を捨て現在の倉敷市にある禅寺の円通寺修行に出たのかも知れない。円通寺で修了書を貰い円通寺を継がないかと慰留されたが良寛は断りその後良寛はどこの宗門にも属さず、全国を行脚して越後に戻ることになる、推測でしかないが、この頃の良寛を記する書物も色々説がありはっきりしていないがもしそうでなければ(亡くなった自分の子どもを思いだされ)と歌を良寛は詠んだだろうか?


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