「現在の学校のいじめ問題にも通じる。会津藩の、什(じゅう)の掟(おきて)」
- 橋元雄二
- 2021年7月7日
- 読了時間: 3分
更新日:2021年7月10日

会津城下の同じ町に住む六歳から九歳までの藩士の子供たちは、十人前後で集まりをつくっていました。この集まりのことを会津藩では「什 (じゅう)」と呼び、そのうちの年長者が一人什長(座長)となりました。毎日順番に、什の仲間のいずれかの家に集まり、什長が次のような「お話」を一つひとつみんなに申し聞かせ、すべてのお話が終わると、昨日から今日にかけて「お話」に背いた者がいなかったかどうかの反省会を行いました。
①、年長者(としうえのひと)の言ふことに背いてはなりませぬ ②、年長者にはお辞儀をしなければなりませぬ ③、嘘言(うそ)を言ふことはなりませぬ ④、卑怯な振舞をしてはなりませぬ ⑤、弱い者をいぢめてはなりませぬ ⑥、戸外で物を食べてはなりませぬ ⑦、戸外で婦人(おんな)と言葉を交へてはなりませぬ ならぬことはならぬものです
※什により、一つ二つ違うところもありましたが(「戸外で婦人と言葉を交えてはなりませぬ」はすべての什にあったわけではないようです)、終わりの「ならぬことはならぬものです」は、どの什も共通でした。そして、「お話」に背いた者がいれば、什長はその者を部屋の真ん中に呼び出し、事実の有無を「審問」しました。事実に間違いがなければ、年長者の間でどのような制裁を加えるかを相談し、子供らしい次のような制裁を加えました。一、無念(むねん)一番軽い処罰です。みんなに向かって「無念でありました。」と言って、お辞儀をしてお詫びをします。「無念」ということは、「私は会津武士の子供としてあるまじきことをし、名誉を汚したことは申し訳がない、まことに残念であります。」という意味でした。二、竹篦(しっぺい)いわゆる「シッペ」です。制裁の重さに応じて、手のひらに加えるか又は手の甲に加えるか、何回加えるかを決めました。仲がいい相手だからと力を抜くものがいれば、什長は厳しく目を光らせ、すぐにやり直しを命じました。三、絶交(ぜっこう)一番重い処罰です。これを「派切る(はぎる)」と言い、いわゆる「仲間はずれ」でした。めったに加えられる罰ではありませんでしたが、一度「絶交」を言い渡された場合には、その父か兄が付き添い「お話」の集まりに来て、什長に深くお詫びをし、什の仲間から許されなければ、再び什の一員に入ることができませんでした。
四、その他火鉢に手をかざす「手あぶり」や雪の中に突き倒して雪をかける「雪埋め」というような制裁もありました。子供にとって仲間たちから受ける審問は辛いものではありますが、「お話」も「制裁」もすべて大人たちに言われてつくったものではなく、子供たちが制約や強制を受けずに自分たち自身でつくり、「会津武士の子はこうあるべきだ。」ということを互いに約束し、励み合ったのです。何か感じた事はありませんか。今の学校教育には子供達で考えさせ、規律を生徒自身が考える仕組みになっていないのです。教育委員会が苛め問題があったかどうか。ばかりに目が向いており根本的に先生や生徒自身も他人事のように見て見ぬふりをしていませんか?今で言えば小学1年生~3年生の年齢の子供達にやってはいけない事をすでに自分達で考えていたのです。⑦は現代の時代には通じませんが。「什の掟」自体は決して間違った事を言ってるようには思えないのです、親も苛めについてやっていけないことであることを厳しく教える事だと思う。
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