(現在の出雲崎の夕景)昔は北前船も寄港していた良寛の名主の橘屋の実家もここにあった。)
良寛は言っている.人々は「私の僧の修行時代のうんちくを求めているのではなく」余芸の詩や歌の書の筆跡を求めるのはなぜか、と。床の間の掛け軸か、茶室の掛け物に用いられる需要があったからである。それは詩や歌の文言を理解しての事ではなかろう。ただ茶掛け用の軸物欲しさからではないか、と嘆きをこめて良寛は詩に書いて残している。嘆いているようだが、ここは良寛特有のユーモアをのぞかせたところだ。良寛が自作の詩歌を書いた書籍には「言霊」(ことだま)がある。良寛の書いた書体の文字が特有で一文字、一文字が「仏の姿に見えたのだ」。文字は読めずとも仏の姿に見えるなら誰でも分かる、そこで良寛はその書が引く手あまたとなるわけも、良寛には分かっていたのだろう。このように詩、歌を求める人がふえて作品の数も増えていった1,810年に良寛の生家であった弟の正之が継いだ名主の橘屋が町方の訴訟に敗れ家財道具一切没収され一家離散となってしまった。良寛の弟の正之は新潟県の与板の地に身を隠した。父親の以南はすでに20年ほど前に出雲崎の橘屋から雲隠れしており、高野山に隠れ住んでいたという説があるが1,796年頃、諸国行脚中の良寛38歳の時に父以南は京都の桂川で入水自殺し、享年60歳で亡くなる。その際父親以南は「西の方から良寛という僧が来るので渡してほしいと言って辞世の句を書いて人に頼んだ」良寛はその辞世の句を受け取り、句を詠んでそこに答えるように父以南の辞世の句に返す句書き足したという。時が進んで1,811年に良寛は今まで書きとめた詩を編み詩集「草堂集貫華」を作った。生家の名主の橘屋は没落して無くなってしまったが、橘屋に一時身を置いた良寛の心の中には「我が志はここにある」との深い意味がこめられているのである。この詩集を手控えにして、新しい詩を作りつつ、既成の詩を改作しては推稿を重ね第二、第三の詩集が完成した。そこには名主の橘屋は没落してしまったが青年期を過ごした生家でもあり、良寛の命がけの橘屋の汚名返上の思いがかかっていたように思う。
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