渟足柵(にたりのき)7世紀ごろまで、大和朝廷の支配が及ばない日本の北方に暮らす人々を 蝦夷(えみし)と呼んでいました。渟足柵(ぬたりのき)はこうした蝦夷に備えた大和朝廷の防衛施設(城のようなもの)であるとともに、都から遠く離れた地方を治める行政施設であったと考えられています。このことは日本書紀に「大化三年(647年)渟足柵を造りて柵戸(きのへ)を置く」と記されており、歴史上、新潟に関する初めての記述とされていますが、このほかにその存在を示すものはなく、日本史上の大きな謎とされてきました。そんな中、平成2年(1990年)に新潟県、長岡市の八幡林遺跡から「沼垂城」「養老」と記された木簡が見つかり、名前を変えながら養老年間(720年頃まで)存在していたことを示唆する発見として、渟足柵(ぬたりのき)の信ぴょう性が大きく増しました。渟足柵の場所はいまだに分かっていませんが、新潟市歴史博物館の小林昌二館長(新潟大学名誉教授)は、その研究成果から、現在の新潟市東区内にあたる旧沼垂(ぬったり)が(ぬたり)呼び名とよく似ていることからも最も有力と語っています。今までこれらの遺跡群の発掘跡からの木簡には長者という名の付くものが多く、もし、新潟市東区で渟足柵が見つかれば、日本史を塗り替える大発見となります。新潟市東区の山ノ下地区か木戸(きど)地区読み方で、(きのへ)とも読める、河渡地区、あたりが有力なのかも知れない。河渡(こうど)とは、「コウ(国府)の渡しとも解釈できるし山ノ下地区近くには長者町と言う地名が残っておりこの3地区が渟足柵の有力地ではないかと言う説がある。 あくまでも仮説なので、夢のある日本史のお話しである。※ 実は、この河渡地区は私の実家がある場所なので、昔はどんな場所だったのだろう想像するだけでも古代のロマンがあり楽しい。ただ新潟市は砂地の土壌で昔から信濃川や阿賀野川の氾濫が何度も起こり地形が削られたり埋まったりの繰り返しが幾度となくあり見つけるにはむずかしいのかも知れないがもし私がもしこのような要所をつくるのであれば地盤のしっかりした高台に作るのではないかと思うのだが・・・・・・。これも想像でしかない。ただ渟足柵(にたりのき)があったことは間違いないようです。
「古代日本史・渟足柵(ぬたりのき)のお話し」
更新日:2021年4月13日
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