「新潟市にまつわる義経伝説」
- 橋元雄二
- 2021年3月17日
- 読了時間: 2分
更新日:2021年4月30日

新潟市北区にある太夫浜諏訪神社は、地元では1189(文治5)年に建立されたと伝えられています。この神社には、源義経にまつわる伝説があります。源義経が兄の頼朝に命を狙われ、平泉へ落ち延びる途中に現新潟市の太夫浜で1泊しました。翌朝神社に参拝していると、義経主従を捕らえようと追っ手が来ましたが、義経らは追ってを追い散らし、この地から去ったと言われています。また義経は女癖が悪かったという話も新潟市のあちらこちらで聞かれる逸話まである。本当の所はどうなのかは不明であるが「火のない所に煙は立たない」と言うことわざもあるので本当の事なのかも知れない!?。何故、義経は日本海側から平泉に向ったのかは、当時、頼朝の兵達が太平洋側の道に義経を捕らえるために待ち構えており仕方なく義経は日本海側の道から北上したという説が一般的に言われている。(義経の愛妾の静御前も義経のあとを追って平泉に向ったが途中新潟県の長岡市で病の為に亡くなったと言われております。)この頃、新潟市北区あたりにいた義経の愛馬の太夫黒がこの浜で亡くなりました。太夫黒の塔はこの愛馬の墓と伝わっています。江戸時代の「越後野志」には地元に伝わる話として、「太夫黒は太夫浜の産まれで、“太夫”は村名で、“黒”は毛が黒色だったことから、この名が付けられた」と書かれています。ほかに、太夫黒がこの浜で亡くなったので、「この浜を太夫浜」と呼ぶようになったという言い伝えもあります。新潟市北区の義経伝説を伝える塔です。元々は宮ノ前(現在の太夫浜小学校の場所)にありましたが戦前に太夫浜青年会が現在地に移しました。その後義経は岩手県平泉町に辿りつき、藤原秀衡のもとに身を寄せていたが、藤原秀衡の次男・泰衡に襲われ30年の生涯を閉じました。 この地で義経公が妻子とともに悲しい最期を迎えたことは、「弁慶の立ち往生」の伝説などとともに語り継がれ、泰衡が義経を匿っていることについて、頼朝から 再三に渡ってそれを糾弾する旨の圧力がかけられていた藤原秀衡の嫡男(次男)。 ... 泰衡は平泉の高館で義経を討伐した、その首を差し出す事で平泉の平和を図ったが、頼朝は逆に家人の義経を許可なく討伐したことを理由をつけて平泉軍はわずか3日程度の戦いで源頼朝の軍に敗れ、奥州・藤原氏の栄華はあっけなく幕を閉じてしまいました。それから500年の時を経て平泉に松尾芭蕉が寄った際に詠まれた。有名な句が「夏草や兵どもが夢の跡」です。
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