「正岡子規の絶筆三句」
- 橋元雄二
- 2020年9月19日
- 読了時間: 2分
更新日:2020年10月7日

子規の「絶筆三句」と呼ばれる。 明治35年(西暦1,902年)9月18日午前11時頃、妹の律と河東碧梧桐の手を借りて、まずまん中に「糸瓜咲て痰のつまりし佛かな」と大書。 その左に「痰一斗糸瓜の水も間にあはず」と書いて、最後の力を振り絞り右端に寝かせるように「をととひのへちまの水も取らざりき」と記す。その次の日9月19日の午前1時に静かに子規は息を引き取った。享年34歳の若さであった。絶筆の三句はどれもヘチマの句だったため正岡子規の忌日を「糸瓜忌」と言うようになった。亡くなったことに気づいたのは9月20日の早朝、妹の律であった。子規の葬儀の日、アメリカ留学から既に帰っていた秋山真之は、紋付羽織袴に威儀を正し出向いたのです。でも既にお棺は子規庵から出たばかりで間に合いませんでした。秋山真之は葬列に深々と頭を垂れ、一礼すると直ちに引き返したそうです。武人として一刻も早く名をあげ、仕事に戻ることが盟友である子規の死にとって強かに供養になるのだと確信したのでしょう。それから三年後(西暦1,905年)秋山真之は日露海戦で東郷平八郎の参謀として真之の編み出した「丁字戦法」の指揮をとり、対馬沖でロシアのバルチック艦隊を打ち破ったのである。海戦前に司令部に打った「天気晴朗ナレドモ波タカシ」は有名な電文である。子規が生きていたら秋山真之の活躍をどれほど喜んだことであろう。
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