『佐渡の民謡「相川音頭」の歴史について』
- 橋元雄二
- 2023年3月18日
- 読了時間: 3分
更新日:2024年5月22日

2024年7月頃に佐渡の金・銀山がユネスコの世界文化遺産になるかも知れない。そこで佐渡ケ島の相川音頭(民謡)について話してみたい。この盆踊唄は寛文年間に始まる古い民謡だとも言われ、昔から佐渡全島で唄われていました。 始めの頃の歌詞は恋物語の心中口説でした。 こうした歌詞は実際に起こった心中事件を素に作られ、盆踊唄として当時の佐渡の人たちに熱狂的に受け入れられました。しかし、江戸時代に心中事件が多く発生し、この「流行」が江戸にまで及んできたため、1722年に徳川吉宗は編纂中の「御定書百箇条」に規定を設け、心中を犯罪として扱うことになります。どちらかが生き残った場合、処刑されるというのは、なかなか厳しい処罰のようにも思います。相川音頭の歌詞内容が心中に関わる事は佐渡金山管理の為に来る佐渡奉行所がある佐渡の相川地区では詞内容が不適切であると当時江戸幕府が歌詞内容を武士の好む武勇伝である義経の源平合戦に歌詞内容を変更し、今の相川音頭になったそうである。私は聴きなれているせいか今の相川音頭が好きである。奉行の前では踊る際、奉行所の前で失礼があってはいけないという事で顔が見えないように傘を深く被って踊りで、失礼のないように、もてなしたそうである。実は、佐渡奉行所は良寛が出家する前は出雲崎の名主の見習いの長男で(名は栄蔵)佐渡奉行所とも深い関係があった。出雲崎から船で佐渡の金山に乗せる奉行所の人達などの船の手配などをしていたある日、奉行所のお偉い方を乗せる籠を船に乗せて佐渡に運ぶ際に籠のもち手がどうしても長く船に乗らなかったため勝手に栄蔵(良寛)が了解なく切ってしまい。佐渡奉行所が怒ってしまつたという逸話が残っている。その頃は「橘屋の昼行燈」いうあだ名がついて栄蔵(のちの良寛)融通が利かず馬鹿正直者の栄蔵と呼ばれていたようです。ちなみに良寛の母は佐渡出身で名前を「おのぶ」言い佐渡金山の近くで生まれたという。佐渡金銀山は当時は人出が不足で江戸は不景気で佐渡への金銀山の労働者を送ることにより江戸の失業者を江戸幕府は佐渡に出稼ぎ者をかなり送ったそうである佐渡は悪い事をした流人の島と思われがちですが佐渡ケ島はどうも流人の島でなく出稼ぎ者の方が多かったようである。当然佐渡金銀山は体力的に辛いが男性の楽しみも用意しなければならなかったので遊郭もあった。佐渡金山の堀った穴を見学するコースがあるので見ていただきたい。マネキンのロボットが金鉱石を掘りながら『なじみの女に合いていな~』と言ってるのである。これは遊郭があった証拠でもある。次に出稼ぎ労働者が多くなれば食料がが足りなくなるそこで佐渡奉行所はお米を作るために佐渡には平地が少ないために山肌を開墾して小倉千枚田を作ってお米の供給をなんとか補ったようです。現在の佐渡ケ島の人口よりも江戸時代の佐渡ケ島の人口のほうが多かったそうである。

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