(1887年頃の木造りの初代の萬代橋)
新潟市の萬代橋は現在は石積作りの強固な橋になっていますが、当初萬代橋が出来た頃はまだ木造りの橋で内山信太郎・八木朋直の2人が共同で経営 する有料橋で,1人1銭の橋銭(通行料金)を取っていました。 橋の西詰(新潟市街)へ方向には「橋番人小屋」があり,通行者はそこで橋銭を 払っていました。しかし,橋の東詰(新潟駅方向)の沼垂町の中心部からは川幅が700mも離れていたので新潟市内と沼垂を結ぶ渡し舟が引き続き営業し ていたことなどから,せっかく完成したのですが萬代橋を利用する人 は少し程しかいませんでした。 明治20(1887)年の1・2月の平均通行者は,橋銭収入から計算 すると1日200人程度で,予想していた人数よりも大幅に少な かったようです。橋を造るのにかかった費用や橋の修理費など を考えると,月平均100円ほどの収入では,とても苦しい経営 だったようです。『金色夜叉』で有名な 作家の尾崎紅葉が明治32(1899)年に,萬代橋を渡る際に 通行料を取られたことに非常に気を悪くしたという逸話があります。そこで利用者があまりにも少なかったので明治33年に新潟県が木造の萬代橋を買い取り通行料金を無料にしました。今では笑い話ですが当時は全国的にみても通行料を支払う橋などなかったんでしょうね。二回の新潟大火で木造の橋は基礎部分を残し焼失してしまいました。その後1929(昭和4)年に,車が往来できるようにと石積工法の鉄筋ンクリートの橋へと進化し、現在の3代目の国の重要文化財指定の6連アーチの綺麗な橋の萬代橋に変わって行きました。新潟市民のシンボル的な橋になりました。
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