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京都,鴨川にある納涼床の歴史。

更新日:2020年8月3日




今では京都の夕涼みのメッカとなっている納涼床の歴史について触れてみる戦乱の後、豊臣秀吉の三条、五条橋の架け替えなどを経て、鴨川の河原は見世物や物売りで賑わいます。それにともない、富裕な商人が見物席を設けたり、茶店ができたりするように。これが納涼床の始まりです。江戸時代に入ると石垣や堤が整備され、付近に花街も形成され、歓楽街になりました。祇園祭の神輿洗いでは見物客で大変賑わったといいます。

江戸中期には約400軒の茶屋が納涼床机の数を定めるなど、組織化も進んでいたようです。当時の床は浅瀬に納涼床机を置いたり、張り出し式や鴨川の砂洲に納涼床机を並べたもので「河原の涼み」と呼ばれました。明治・大正明治時代になって、7、8月に床を出すのが定着、鴨川の右岸・左岸両方に納涼床が出ていました。 両岸は高床式の床、砂洲は床机、三條大橋の下には河原から張り出した床が出ていたようです。 明治27年(1894)の鴨川運河開削や大正4年(1915)の京阪電車鴨東線の延伸などにより、左岸(東側)の床が姿を消し、大正時代には治水工事のため納涼床机が禁止され、工事により禊川ができます。 昭和・平成昭和4年、半永久的な納涼床は禁止になります。昭和9年の室戸台風、翌年の集中豪雨で納涼床は壊滅的な被害を受けました。さらに第二次世界大戦では完全に納涼床の灯が消えましたが、戦後、昭和27年「納涼床許可基準」が策定され、景観上の基準になりました。 納涼床を許可する窓口である京都鴨川納涼床協同組合(前・鴨涯保勝会)は「納涼床設置規則」を定め、納涼床の文化風習を未来へと伝えるべく現在でも尽力しています。私も会社員時代の頃に京都にあるメーカーさんと取引があり、よく京都には仕事でよく来ていた事もあり、夏になると取引メーカーさんの方に何度かお呼ばれを受けこの納涼座敷で京都風の会食とお酒を楽しんだことがある。昼間は盆地になっている夏の京都の昼間は暑い!昼間の寺めぐりの観光とははまったく違って夕方から鴨川のせせらぎを聞きながらの風情はなんとも涼しいし京都ならではの納涼の景観がそこにはあり、違う京都の景観の魅力にもなっている。機会があれば是非一度は納涼床で会食などを楽しまれるのも京都の風情を知るには良い場所だと思う。納涼床は料理にもよるが一人5,000円~7000円ほどで席料金は込みのところもあるが別に取るところもあるので事前に調べて予約しておいた方が良い。納涼床を利用しなくとも夫婦やカップルで左岸を歩きながら京都の風情を感じながら散策するのもいいかも知れない。私は仕事の慰労会のようなもので出席していたので残念ながらそういう機会はなかったが。浴衣か甚平で夕涼みがてら納涼床を望みながら歩いてみたいと思う。あくまでも願望だが。







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