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執筆者の写真橋元雄二

「正岡子規の群馬・埼玉の旅」

更新日:2020年10月5日



子規は亡くなる11年前の明治24年西暦1,891年に正岡子が帝国大学・国文科に転科した頃に

熊谷や川越の地を訪れている正岡子規が明治24年にこの小江戸、川越に旅行し宿泊した際に詠んだ歌が刻まれている。砧うつ隣に寒き旅寝かなと刻まれている。その後明治26年西暦1,893年に川越大火により川越の町は12時間燃え続けてようやく鎮火した。本日9月22日のニュースでは小江戸川越の町にはシルバーウイークの最終日でもあり、沢山の観光客が小江戸川越を訪れて溢れかえっていた。子規が根岸の子規庵から遠出をした最後の小旅行となった。この後に明治28年日清戦争の従軍記者として同行し帰路の船の中で吐血し神戸の保養所で静養後、東京、根岸の子規庵の戻ったが脊髄カリエスの病状が更に悪化していき子規はどこにも出かけられず、庵の庭を見ながらの寝たきりの生活となる。糸瓜を植えたのはカリエスの病気で痰がからむので糸瓜水で喉を潤していたようである。皮肉にもこの糸瓜が正岡子規の絶筆三句になるとは彼は考えてもいなかっただろう。


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