top of page
検索

維馨尼への良寛の愛の思い

  • 執筆者の写真: 橋元雄二
    橋元雄二
  • 2019年11月24日
  • 読了時間: 3分

更新日:2019年12月3日

維馨尼は良寛より7歳年下で名を「おきし」と言い与板町の豪商三輪家の娘で良寛の学友三輪左一の姪でもあり、 良寛が、大森子陽の狭川塾へ通っていた頃、三輪家にも出入りしていた。

それでおきしのことを知った。勉学時代、おきしと栄蔵(良寛)良く遊んでい たそうです。 良寛14~5歳の頃ですから、おきしは10歳以下の幼女ですおきしは作法や容姿とも幼女とは思えないほどのオーラを放っていたほどの綺麗な子供であったそうです。現代なら中学生が小学低学年の幼女とままごと遊びをしている様なもので、ニキビ面の中学生が幼女と遊んでいれば、変態・痴漢・ロリコンかとおきしの両親は心配するでしょう。良寛は子供の頃から他の人と違う少し変わっ他人だったので尚更です。良寛は、昼行灯というあだ名で呼ばれるほど普段はぼーっとしていた人でしたが、こと文章を書く事や記憶力だけは、他の人と違う資質を持っておりました。それからいく年を経て、おきしは一度江戸の商人に嫁ぎますが30歳で未亡人となり三輪家の実家に帰ってきました。その頃良寛も諸国行脚の旅から国上山の五合庵に戻っており、良寛が後家狙いをしていたとは思いませんが、おきしに惹かれていた事には間違いないと思います。おきしの与板と五合庵はそう遠くもないので、度々おきしは良寛を訪ねております。出家したのは良寛の勧めで、髪を落とし、維馨尼との名前も良寛が考えたとの説もあります。おきしも実家が豪商とは云え出戻りの小姑生活を11年も続ければ居心地が悪く、維馨尼も早く三輪家を出たかったのかも知れません。維馨尼は直江兼継の直江家の菩提寺の徳昌寺再建の資金集めの為に江戸に長期滞在します。この時維馨尼の体調を心配した良寛の手紙が合計5通(漢詩)が残されています。維馨尼も手紙を大事に保管していたそうです。良寛の想いは単なる友人や師弟の関係以上の深い想いがあったのでしょう。まさに不器用な良寛が精一杯の想いを込めたラブレターだったのだと思います。維馨尼に宛てた手紙は越後を出てすぐに一通と、江戸に着いた時のねぎらいの言葉をしたためた合計5通の手紙を送っていたそうである。維馨尼も、良寛の愛の気持は知っていたのかもしれません。想像ですがなんせ維馨尼の史実が少ないので詳しくは残っておりません。江戸に行く最中の手紙に呼磋吾何道 ああ吾何をか道わん 天寒自愛天寒し 自愛せよ・・・・・・(省略 恩人山河遠   思う人は(維馨尼)遥かなかなた含翰思万端  文を書こうとするが色んな事が浮かび筆が進まない(翰とは羽で作った筆、転じて手紙の事) (思う人とは友達や弟子への思いでは無く、男の女への思いだと思います。良寛の維馨尼への深い愛情が偲ばれます。寺持ち和尚なら自分の寺で出家させ同じ屋根の下で生活出来たのでしょうが、良寛のような乞食坊主では如何とも出来ません。ましてや少し変わった人で積極性に欠ける良寛は、手紙で想いの丈を充分に伝える事しか出来なかったのでしょう。良寛は50代維馨尼は40代です。好きな女の為なら世間の非難など気にせず泥水を啜る様な事があっても本望でしょう。二人が愛し合っていたのなら還俗して結婚生活を送る事も維馨尼も出来たと思うのです。維馨尼は江戸での資金集めの無理がたたり帰郷後数年で越後与板の町の三輪家の奥座敷にて58歳で亡くなります。逝去の知らせを聞いて、良寛さんは泣き崩れたそうです。それだけ良寛の維馨尼の思いは特別な愛そのものだったのでしょう。不器用な良寛はストレートに想いを維馨尼伝えていれば二人の運命は違っていたのかも知れませんね。


 
 
 

Comments


© 2023 著作権表示の例 - Wix.com で作成されたホームページです。

bottom of page