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良寛、村上藩の殿様を諌める。

  • 執筆者の写真: 橋元雄二
    橋元雄二
  • 2019年11月9日
  • 読了時間: 2分

更新日:2020年1月15日



村上藩(現新潟県村上市)の臥牛山頂上にあったお城跡で舞鶴城と

 呼ばれていた。現在は城跡だけでお城はない。





良寛のいた国上集落は、村上藩の領地であった。余談ではあるが雅子皇后妃のお父様の先祖は村上藩内藤家に仕えていた武士であった。その頃の藩主は内藤信敦といって狩猟が大好きだつた。 (江戸時代後期の大名で、越後村上藩の第6代藩主。内藤信敦候は 江戸幕府では奏者番、寺社奉行、若年寄、京都所司代などの要職を歴任した。) 信敦は、狩猟がやりたくなると、時をかまわず出向いてきた。ある秋の一日、良寛は山を降りて托鉢に出かけると、村人たちが一心に道を掃いている。「どうしたのですか」と聞くと村人たちは声をひそめて、「村上のお殿さまがお出になるのです。このあたりは狩猟にもつてこいですから」良寛「いまは米の刈り入れに忙しい時ではありませんか」村人「そうなのですが仕方ありません」「それではお前さん方のために、お殿様のお出になるのををやめさせましょう」そう言って 良寛は,立て札を用意させ、看板に「短か日の さすかぬれぎぬ 干しあへぬ 青田のかりは心して行け」このような歌を書いて立てさせた。

つまり意味は、「かり」を稲刈りと狩猟と、双方にかけたのである。藩主の一行がやってきた。内藤信敦候は駕籠に乗っていたが、立て札が新しいので駕籠を止めさせ、じっと見ていたが、とつぜん駕籠をめぐらして立ち去り、二度と狩猟にはこなかったという。これをもってみれば、内藤信敦も民を思う名訓であったといえよう。私もこの、村上市に会社の転勤で約二年半毎日、村上藩お城跡写真の山頂(臥牛山:がぎゅうざん)を見ながら出勤していたが、良寛との逸話があった事は私は今まで知らなかった。


           

 
 
 

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