思い起こせば幼い頃からお互い知り合いで与板の豪商大坂屋・三輪家六代目の 三輪九郎右衛門長高の長女である。(三輪家は回船業で財を築いた大金持ちで、 この地方の長者番付では常に上位であった。名前は、(おきし)という。良寛より7歳年下である。 そして良寛の学友・三輪左一(左市)の姪にあたる。良寛が、大森子陽の塾へ通っていた頃、三輪家にも出入りしていた。それで(おきし)のことを知っていたのだ(おきし)も才女で聡明で美しく大森子陽の塾ではアイドル的存在で誰もが憧れていた。良寛もきつとそうであったと思う、またおきしは一旦は他家に嫁したとはいえ未亡人になった後は髪を落し尼の身になった、維肇尼(いきょうに)という名も良寛に付けてもらい、良寛には何くれとはなく支えられ心のよりどころとして生きてこられた。良寛もまた、維肇尼(いきょうに)幼名(おきし)の情念をしっかり受け止めてはいた。むしろ維肇尼以上に良寛のほうが激しく燃えていたかも知れない。このブログ内でも「良寛が唯一書いたラブレター」で触れている。しかし、お互いの身分は僧籍にある。両人ともに溢れる思いを抑止することがひとつの悟りであった。良寛の出家さへしなければ良寛、橘屋山本家の当主文孝として与板の豪商の息女おきしを嫁とっていたら幸せな人生だったかも知れない。両人の運命は良寛が出家を決意したことにて決定的な変化を生じたのである。お互い僧籍がなければ維肇尼は(おきし)として良寛は(栄蔵)として俗人であれば純愛を結実したのかもしれない。維肇尼は徳昌寺の再建の為の資金集めに江戸での長旅で体調を崩し58歳で三輪家の奥座敷の間で亡くなった。その後良寛が70歳の時に弟子に迎えたのが30歳の貞心尼であった彼女も医者であった夫の死別により尼となり、良寛を尊敬して良寛に仕えた良寛が亡くなるまで最後を看取るまで良寛を支えた人である。この維肇尼と貞心尼二人の事は
ぜひ本を読んでほしい。
Comments