良寛出家の訳には「色々説があるが」
- 橋元雄二
- 2019年11月18日
- 読了時間: 2分
名主の橘屋の長男として、ある日、名主になったばかりの栄蔵(良寛を名乗る前)に難破船から物を盗んだ村人を拷問する場に立ちあわせられることになった。そしてその者の罪が確定し、死刑になるところまで立ちあわせられた。その罪人が、しきりにわめいて死にたがらないのに、容赦なく首が跳ねられて、血がものすごく吹き出すのを見た。栄蔵{良寛)は恐ろしい思いで、青ざめた顔をして家に帰ったが、じっとはしていられらなかった。一人でいるのがたまらなかったので、なじみの遊郭に上がって、遊女を総上げにして大騒ぎをした。しかしいくら騒いでも,酒を飲んでも、首が切られた【光景が、どうしても目から離れなかった。良寛は人生の無常さを、つくづく感じた。そして精神的に脆弱で
世渡りが下手な自分の性格を省察した。栄蔵(良寛)はあらためて父親の前に出て、このままでは名主の職がつとまらないこと、自分を磨きあ上げたいので、禅の道に専心して、勉強してみたいと申し出た。父親の以南は、突然なので驚いたが、元々栄蔵の内向的な性格を苦にしていたので、禅によって鍛えられのならと賛成した。栄蔵は父親と相談して出雲崎の隣町の尼瀬の光照寺(曹洞宗)の行き、破了和尚の法弟になった。このとき、18歳法名を栄蔵を「良観」と称した。なお、観という字を寛と改め、良寛となるのは後のことである。光照寺には5年程修行をしたがもともと良寛はわかりの早いタイプではないので目に見えた成果がおもったほど出なかった。ちょうどその時に現、岡山県倉敷にある円通寺の国仙和尚が勧化の道すがら越後にやってきて光照寺にしばらく杖を置くことになった
良寛は国仙和尚の考えにたまらない魅力を感じこのままでは中途半端に自分がなってしまうと感じ岡山の円通寺の国仙和尚が光照寺を離れる時に国仙和尚の円通寺で修行のために倉敷に行く決断をしたのが良寛全国行脚の始まりとなり良寛が越後の国上山の五合庵に戻ったのは40歳前後となる。その前に京都に寄った際に父以南の入水自殺を知ることになる。

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