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[花嫁人形

  • 執筆者の写真: 橋元雄二
    橋元雄二
  • 2020年3月8日
  • 読了時間: 3分

更新日:2020年3月9日


蕗谷紅児(ふきやこうじ)という挿絵画家をご存知だろうか?名前は知らなくても写真の「花嫁人形」という挿絵なら見た事があると思う新潟市出身の画家であり19歳の頃に、父親の仕事(現新潟日報)の仕事の関係で樺太へ渡ることになり、それを機に放浪画家の生活を送ることになる。1919年 (大正8年)、竹坡門下の兄弟子の戸田海笛を頼って上京。戸田海笛の紹介で日米図案社に入社、図案家としてデザインの修行をする。1920年 (大正9年)、22歳、竹久夢二を訪ねる。夢二に雑誌『少女画報』主筆の水谷まさるを紹介され、蕗谷紅児の筆名により同誌へ挿絵掲載のデビューを果たす。吉屋信子の少女向け小説『花物語』に描いた挿絵が評判になり、10月創刊の講談社『婦人倶楽部』のカットなど挿絵画家としての仕事が増え始める。1921年 (大正10年)、竹久夢二の許可を取り、虹児に改名。朝日新聞に連載の吉屋信子の長編小説『海の極みまで』の挿絵に大抜擢され、全国的に名を知られるようになる。蕗谷虹児の母は新発田市の風呂屋の看板娘でそれはたいそう美人であり、虹児が小さい頃から優しい母であったそうであるが父は酒癖が悪く、家庭の中は荒れていた、この頃から虹児は竹久夢二の絵をまねて自分で書いていたそうである。この花嫁人形はもしかしたら虹児の優しい母の面影を思い起こし挿絵にしたのかもしれない。『少女画報』『令女界』『少女倶楽部』などの雑誌の表紙絵や挿絵が大評判で時代の寵児となり、夢二と並び称されるようになる。1924年 (大正13年) 2月、『令女界』に発表した詩画「花嫁人形」は、虹児が作詞後に杉山長谷夫の作曲で童謡にもなり、切手にもなった「金らんどんすの帯締めながら花嫁御寮はなぜ泣くのだろう・・・・」のフレーズを聞けば大体の皆さんはご存知だと思う。虹児の代表作となった。他にも9冊の詩画集を出版。挿絵に感傷的な余韻を残し、見る者に描き手の想いを伝える絵を手掛けたいと、自らの絵を「抒情画」と名付けるようになる。

1925年 (大正14年)、挿絵画家としての生活に飽き足らず、フランスパリへ留学。苦学の末、フランス国民美術協会等への連続入選を果たし、またフランス画壇で活躍する日本人画家の藤田嗣治東郷青児等と親交を深め、画家としての地歩を固めつつあった。1929年 (昭和4年)、東京の留守宅の経済的破綻により急ぎ帰国。借金返済のため、心ならずも挿絵画家の生活に戻るが、パリ風のモダンな画風は一世を風靡した。虹児を世に送り出した夢二の柔らかい画風とは対照的に、このころの虹児の挿絵はシャープかつ洗練された線で描かれ、都会的な香りに満ちていた。1935年 (昭和10年)、詩画集『花嫁人形』出版した。蕗谷虹児は竹久夢二を非常に尊敬し先生といつも呼んでいたと聞くペンネームをつけるときにも竹久夢二にお伺いをたてていたほどである。蕗児の名前の由来は新潟市の繁華街に実際にある吹屋小路と言う通りの小路から思いついたのかも知れない。この蕗谷虹児美術館は新潟市の隣の新発田市にあるので機会があれば見てほしい。近くには白鳥で有名な瓢湖にも近いので寄ってみるのも良い。

 
 
 

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