『終戦記念日を迎えて』
- 橋元雄二
- 8月17日
- 読了時間: 2分
更新日:8月17日

私の父はゼロ戦を作っていた、当初のゼロ戦の性能は素晴らしかったんだとゼロ戦の話をするとその性能は素晴らしかったと父はこれでもかと言うほどゼロ戦の性能の事を話してくれた。父の実家は鹿児島の知覧に近い所に住んでいたこともあり、特攻隊のゼロ戦の整備を行い若い世代の人たちが志願し特攻隊員になったその若者たちが出撃前に遺書を残すのだが文章内容も検閲が入るために余計なことは書けなかったそうである。これ自体も当時のお国の為に死んでいくのがが当たり前の状態で本音は『死にたくない』と書きたかったのではなかろうか?当時は日本も資材関係が底をつきゼロ戦も寄せ集めの古いゼロ戦くらいしかなかったそうである。燃料は片道分のみだけの分だけ、彼らは出撃の予定日の一週間前に遺書を書き祖国を守るために空へと飛び立って行く、鹿児島には薩摩富士と呼ばれている開聞岳がある富士山のような形をした山である、特攻隊員達はこの山を富士山に見立てて特攻機は翼を振って最後の別れをし、そのまま沖縄方面に飛んで行った、ほとんどはアメリカの船の艦砲射撃でほとんどが艦隊に体当たりできず海に突込んで行った。任務完了はモールス信号音がツーと信号音がツーという音が途絶えて任務完了である。ゼロ戦を作った堀越二郎はゼロ戦が次々に海に突こむ姿をどう見てたのだろう。艦隊に艦隊に体当たり出来なくなったゼロ戦が海中に沈んで行く特攻機を見て恐らく堀越二郎も戦闘機は作りたくなかったのではないかと思ってしまう、軍の命令で作るしかなくなかったんだろうと思うようにしてる。それでなければ特攻隊員の人達の命は何のためにこの世に生きて来たのだろうか?父はいつも「この時期になると「戦争ほどみじめなものはない」と口癖のように言う。今の平和があることを私たちは次の世代の子供達に伝える義務があるように思う。内の親父の兄も中国で亡くなったと聞いたが骨は戻ることはなかったそうだ。それが戦争の現実なのかも知れない。
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