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  • 執筆者の写真橋元雄二

「日本でベースボールを「野球」と和訳したのは正岡子規と思われている人が多いが実は中馬庚(ちゅうまん かなえ)」という人である。

更新日:2020年10月6日



1873年(明治6年)に日本に初めて野球を紹介したのは、開成学園(東京大学の前身)のアメリカ人教師、ホレエス・ウイルソンだそうです。  ただし、この頃の野球は、投手はすべて下手投げ、ストライクは打者が決めるという今とまったく違う形で行われていました。今のソフトボールに近かったのです。これは日本人がそうしたのではなく、当時のアメリカの野球がそうだったようです。アメリカで近代野球が確立したのは1901年だったそうなので、日本の野球はアメリカの近代野球をそのまま輸入して発展したものではないということがわかります。  1877年(明治10年)日本で初めての社会人クラブが誕生して以来、第一高等学校や帝国大学の学生らによって野球が活発になっていきました。その野球好きの一人に有名な俳人、正岡子規がいます。「ベースボール」を「野球」と和訳したのは、この正岡子規となっているが。.正岡子規はbaseballの意味で「野球」という単語を使ったことは無い。そのかわりに「ベースボール」「弄球」「投球」という単語を使っている.、じつは初めて「野球」と日本語に訳したのは、第一高等中学校の野球部員であった中馬庚(ちゅうまん かなえ)と言う人である。正岡子規の名は常規(つねのり)。幼名処之助(ところのすけ)で、のちに(のぼる)と改める。 たまたま友人達にベースボールを教えたのが(のぼる)で正岡子規らは旧松山藩主が若者あてに建てた寄宿舎・常磐会に入寮していました松山から上京していた寮の友人達から子規は「のぼさん」と呼ばれており、その名からベースボールを「ノボール」と名付けてこの野球の原形を興じて遊んでいただけである。秋山真之は小柄ではあったが運動神経もよく考えながらの野球の戦略を立てるのにも優れていたという。これがのちの日本海軍の作戦を立てる参謀としての能力を発揮したのだろう当時はボールもバットも全て手作りであった。この常磐会に入寮してた頃が清水則遠や(20歳の若さで栄養失調の心臓発作で亡くなってしまう)秋山真之や正岡子規にとって一番楽しくも幸福な時だったのかも知れない。その後、真之は日本海軍に入隊し海軍での作戦を学ぶためにアメリカへ留学する。のちに真之が51歳で盲腸が悪化し亡くなる時に残した辞世の句として残した不生不滅明けて鴉の三羽かな三羽鴉とは若くして松山より上京し常磐会に入寮してた清水則遠、正岡子規、秋山真之の事である同郷であった清水則遠が20歳の若さで死んだ時には正岡子規は狂ったように泣き叫び故郷の親族にはどのようにして亡くなり葬ったか事細かに書面に書き丁寧に長い手紙を清水の実家に送ったそうである。その長い手紙にはびっしり書かれたていたと言われている。それだけこころざし半ばの若き死を真之,子規は忘れず清水則遠のこころざしを胸に刻んで、一日も早く名をあげると心の中で誓ったことであろう。


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