『亀田鵬斎と良寛』
- 橋元雄二

- 1月12日
- 読了時間: 5分

亀田鵬斎は江戸の儒学者で、有名な書家でもあり文人でもあり、江戸ではかなり有名な人でもあったが、亀田鵬斎は江戸幕府の「寛政異学の禁」に猛烈に反発し江戸幕府より江戸所払いとなつたのでその時に信濃経由で越後と佐渡に遊学に出ていた。良寛の住んでいた五合庵の近くの出雲崎に来た時、亀田鵬斎が出雲崎で、論語の講義をしていると、その席で大笑いする者がいた、鵬斎がむっとして、みてみると垢染みた衣を着た良寛であった。孔子の話の郷党編の話の中で良寛が鵬斎の解釈には間違いがあると異議をとなえたその論語の話の解釈の意味に良寛は鵬斎に向かって「嘘は言うな」と指摘すると、鵬斎は良寛が只者ではないと感じ講義が終わり鵬斎は良寛のいる五合庵まで、ついて来たという。その際に良寛が、亀田鵬斎の論語の過ちや、運筆の運び方を指摘しながら教えた。鵬斎は、大いに良寛を尊敬し、書法の秘訣を悟ったという。亀田鵬斎の論語の過ちや、運筆の運び方を指摘したりして。鵬斎は、大いに良寛を尊敬し、書の運筆の運び方の秘訣を良寛から教わったという。ある日夕立で亀田鵬斎がびっしょりになった姿の鵬斎と出逢った。その姿を見て良寛が「夕立降りこめらし腐れ儒者浸る君子と誰か言うらん』と、狂歌でからかった。(くされ儒者は、時世にうとい儒者や、役に立たない儒者を罵っていう語。ひたる君子とは雨水に浸るとをかけた皮肉である)五合庵を後にし江戸に帰ろうとした鵬斎に良寛は「南蛮は好きか」?と尋ねると鵬斎は「好きだと」答えたら良寛はお金がなかったのだろうで、その代わりに紙に『南蛮』と書いた書を渡したそうで鵬斎はあきれて江戸へ戻ったそうだ。それが縁で良寛も鵬斎もお互いを尊敬するようになった。鵬斎はその後江戸に戻った(江戸所払いとなっていた亀田鵬斎は日本橋より20km以内に入つてはならないとの約束事を守らなければならなったが、「当時の江戸幕府の所払い」もいい加減なもので草履を日本橋手前の20km前で草履を脱いで下駄などに履き替えて江戸に入れば入れたという本当にいい加減な所払いであったようです。鵬斎の書は、良寛に習っていたので良寛の書体によく似ていたので鵬斎が江戸に帰って書を書き始めると、今までと違った書体になっていたので江戸の人達は「亀田鵬斎は越後帰りで字がくねり」と鵬斎を揶揄していたと言う。柳家さん生(作)の古典落語の演目に、ある屋台のおでん屋を舞台に展開する古典落語で演目柳家さん生作の「亀田鵬斎とおでん」は、おでん屋の屋台が舞台の古典落語。書家として高名な亀田鵬斎が、お礼として扇子に「おでん 燗酒 平次殿 鵬斎」と落款付きで書き入れます。しかし、この書を巡って、大店の旦那衆や殿様といった好事家たちが次々と高額なお金を置いて、その扇子を強引に持ち去ってしまうのです。これに困惑するおでん屋の親父の様子が、面白おかしく描かれています。「亀田鵬斎とおでん」という落語は有名である。(新宿の末広亭など)youtubeでも聞けますので機会があれば是非聞いてください。当時のおでんとは、竹串に刺して焼いた豆腐に味噌をつけて食べる田楽(でんがく)のこと。豆腐以外にもナスやこんにゃく、里芋などがあり、江戸時代に庶民が気軽に食べられるファストフードで、屋台は殆ど肩に、担いで移動するタイプが主流でした、もちろん当時の屋台には車輪などないので屋台は肩で担いで移動しながら商いをしていたそうである。また良寛は、亀田鵬斎が越後に遊学中に出雲崎の宿にいた頃に、鵬斎が俳句の最後の文言の部分がどうしても浮かばず思案しながら宿の外を散策したが最後の文言がどうしても思い浮かばず仕方なく宿に戻ってみると、思い浮かばなかった最後文言がいつのまにか書かれていたそうである。ちょうど良寛が亀田鵬斎の泊まる宿に寄った際に最後の文言が埋まってなかったので、それを見た良寛が最後の文言を埋めて黙って五合庵に帰っていったという。一度良寛が、江戸の亀田鵬斎を訪ねたことがあったがあいにく鵬斎が留守で弟子が対応したが、ただいま先生を呼んでまいりますと言ったが良寛は弟子に「よしよし」とだけ言い越後へ帰って行ったそうだ。その際鵬斎は非常に残念がったという。のちに亀田鵬斎は良寛をこのように語っている「わしは良寛と交わってから、草書の秘訣を得たような気がする。それからというものは、亀田鵬斎の書も変わったようだ。」

良寛の書は贋作が多いと言われておりこの上記の発見された書は本物の良寛の書だったそうである。内容はある宿の前庭に植えられていた松を詠んだものであることも分かった。
江戸所払いになっていたので鵬斎は越後、佐渡に遊学しその時に良寛と知り合い鵬斎は 良寛から書の作法を教わり、その後の鵬斎の書法にも深く影響を与え、江戸に戻った鵬斎が良寛の書の作法のように書き始めると江戸で「鵬斎越後帰りで字がくねりと江戸の人達に揶揄されたそうである。確かに良寛の書が字が流れるように書かれており確かにくねった書体にように見えますね。また古典落語の「亀田鵬斎」の演目は有名である末広亭
また亀田鵬斎は1783年天明の浅間山の大噴火の際は自分の蔵書を全部売り払い被災者の為に今でいう義援金を贈ったそうだ。これも良寛の教えが影響しているように感じる。また、良寛が亡くなった時には、鵬斎は「六歌仙の一人である喜選法師より以後、良寛和尚のような者はいない」と賛辞を送ったそうである。






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