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『亀田鵬斎と良寛』

  • 執筆者の写真: 橋元雄二
    橋元雄二
  • 2023年11月8日
  • 読了時間: 3分

更新日:4月16日



亀田鵬斎は江戸の儒学者で、有名な書家でもあり文人で江戸ではかなり有名な人でもあり、亀田鵬斎は江戸幕府の「寛政異学の禁」に猛烈に反発し江戸幕府より江戸所払いとなつたのでその際信濃経由で越後と佐渡に遊学に来ていた。良寛の住んでいた五合庵の近くの出雲崎に来た時、亀田鵬斎が出雲崎で、論語の講義をしていると、その席で大笑いする者がいた、鵬斎がむっとして、みてみると垢染みた衣を着た良寛であった。孔子の話の郷党編の話の中で良寛が鵬斎の解釈には間違いがあると異議をとなえたその論語の話の解釈の意味に良寛は鵬斎に向かって「嘘は言うな」と指摘すると、鵬斎は良寛が只者ではないと感じ講義が終わり鵬斎は良寛のいる五合庵まで、ついて来たという。その際に良寛が、亀田鵬斎の論語の過ちや、運筆の運び方を指摘しながら教えた。鵬斎は、大いに良寛を尊敬し、書法の秘訣を悟ったという。亀田鵬斎の論語の過ちや、運筆の運び方を指摘したりして。鵬斎は、大いに良寛を尊敬し、書法の秘訣を悟ったという。五合庵を後にし江戸に帰ろうとした鵬斎に良寛は「南蛮は好きか」?と尋ねると鵬斎は「好きだと」答えたら良寛はお金がなかったのだろうで、その代わりに紙に『南蛮』と書いた書を渡したそうで鵬斎はあきれて江戸へ戻ったそうだ。それが縁で良寛も鵬斎もお互いを尊敬するようになった。鵬斎はその後江戸に戻った(江戸所払いとなっていた亀田鵬斎は日本橋より20km以内に入つてはならないとの約束事を守らなければならなったが、当時はいい加減なもので草履を日本橋手前で20km手前で草履を脱いで下駄などに履き替えて江戸に入れば入れたという本当にいい加減な所払いであったようです。鵬斎の書は、良寛に習っていたので良寛の書体によく似ていたので鵬斎が江戸に帰って書を書き始めると、今までと違った書体になっていたので江戸の人達は「亀田鵬斎は越後帰りで字がくねり」と鵬斎を揶揄していたと言う。柳家さん生(作)の古典落語の演目に、ある屋台のおでん屋を舞台に展開する落語話で演目亀田鵬斎」という古典落語は有名である。(新宿の末広亭など)youtubeでも聞けますので機会があれば是非見てください。当時のおでんとは、竹串に刺して焼いた豆腐に味噌をつけて食べる田楽(でんがく)のこと。豆腐以外にもナスやこんにゃく、里芋などがあり、江戸時代に庶民が気軽に食べられるファストフードで、屋台は殆ど肩に、担いで移動するタイプが主流でした、もちろん当時の屋台には車輪などないので屋台は肩で担いで移動しながら商いをしていたそうです。また良寛は、亀田鵬斎が越後に遊学中に出雲崎の宿にいた頃に、鵬斎が俳句の最後の文言の部分がどうしても浮かばず思案しながら宿の外を散策したが最後の文言がどうしても思い浮かばず仕方なく宿に戻ってみると、思い浮かばなかった最後文言がいつのまにか書かれていたそうである。ちょうど良寛が亀田鵬斎の泊まる宿に寄った際に最後の文言が埋まってなかったので、それを見た良寛が最後の文言を埋めて黙って五合庵に帰っていったという。一度良寛が、江戸の亀田鵬斎を訪ねたことがあったがあいにく鵬斎が留守で弟子が対応したが、ただいま先生を呼んでまいりますと言ったが良寛は弟子に「よしよし」とだけ言い越後へ帰って行ったそうだ。その際鵬斎は非常に残念がったという。また亀田鵬斎は1783年天明の浅間山の大噴火の際は自分の蔵書を全部売り払い被災者の為に今でいう義援金を贈ったそうだ。また、良寛が亡くなった時には、鵬斎は「六歌仙の一人である喜選法師より以後、良寛和尚のような者はいない」と賛辞を送ったそうである。


 
 
 

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