top of page
検索
執筆者の写真橋元雄二

『亀田鵬斎・越後帰りで字がくねり』





鵬斎は江戸の儒学者で、有名な書家でもあり文人で江戸ではかなり有名な人でもあり、亀田鵬斎は寛政異学の禁で猛烈に反発し幕府より江戸所払いとなつたその際信濃経由で越後と佐渡に遊学に来ていた、出雲崎に来た時、鵬斎が出雲崎で、論語の講義をしていると、その席で大笑いする者がいた、鵬斎がむっとして、みてみると垢染みた衣を着た良寛であった。孔子の話の郷党編の話の中で良寛が鵬斎の解釈には間違いがあると異議をとなえたその論語の話の解釈の意味に良寛は鵬斎に向かって「嘘は言うな」と指摘すると、鵬斎は良寛が只者ではないと感じ講義が終わり鵬斎は良寛のいる五合庵まで付いて来たという、その際に良寛が、亀田鵬斎の論語の過ちや、運筆の運び方を指摘しながら教えた。鵬斎は、大いに良寛を尊敬し、書法の秘訣を悟ったという。亀田鵬斎の論語の過ちや、運筆の運び方を指摘したりして。鵬斎は、大いに良寛を尊敬し、書法の秘訣を悟ったという。五合庵を後にし江戸に帰ろうとした鵬斎に良寛は「南蛮は好きか」?と尋ねると鵬斎は「好きだと」答えたら良寛はお金がなかったのだろうで、その代わりに紙に『南蛮』と書いた書を渡したそうで鵬斎はあきれて江戸へ戻ったそうだ。それが縁で良寛も鵬斎もお互いを尊敬するようになった。鵬斎はその後江戸に戻った(江戸所払いとなっていた亀田鵬斎は日本橋より20km以内に入つてはならないとの約束事を守らなければならなったが、当時はいい加減なもので草履を履いていれば江戸の街に入れたという本当に適当な所払いであった。鵬斎の書は、良寛に習っていたので良寛特有の字体によく似てたので鵬斎が江戸に帰って書を書き始めると、今までと違った書体になっていたので江戸の人達は「亀田鵬斎は越後帰りで字がくねり」と鵬斎を揶揄していたと言う。柳家さん生(作)の落語の演目に、ある屋台のおでん屋を舞台に展開する噺で鵬斎とおでんや」は有名な古典落語のがある。皆さんも一度は落語で聞かれたことがあるかも知れない。聞いてない方はyoutubeで柳家さん生(作)「鵬斎とおでんや」の落語を聞かれてください。当時のおでんとは、竹串に刺して焼いた豆腐に味噌をつけて食べる田楽(でんがく)のこと。豆腐以外にもナスやこんにゃく、里芋などがあり、江戸時代に庶民が気軽に食べられるファストフードで、屋台は殆ど肩に、担いで移動するタイプが主流でした、もちろん屋台には当時車輪などないので担ぐしかなかった。また良寛は、亀田鵬斎が越後に遊学中に出雲崎の宿にいた頃に、俳句の最後の句の部分がどうしても浮かばず思案しながら宿の外を散策したが最後の一句がどうしても思いつかず仕方なく宿に戻ると出てこなかった最後の句がいつのまにか埋まっていたそうである。ちょうど良寛が亀田鵬斎の泊まる宿に寄った際に最後の句が埋まってなかったので、それを見た良寛が最後の句を埋めて黙って五合庵に帰っていったという。また、亀田鵬斎が江戸に帰る時に鵬斎に良寛があなたは(南蛮)は好きかと尋ねると鵬斎は「好きだ」と言うと、良寛は紙に「南蛮」と書いておみやげだと言って渡したそうだ鵬斎は呆れて江戸に帰って行った、一度良寛が、江戸の亀田鵬斎を訪ねたことがあったがあいにく鵬斎が留守で弟子が対応したが、ただいま先生を呼んでまいりますと言ったが良寛は弟子に「よしよし」とだけ言い越後へ帰って行ったそうだ。その際鵬斎は非常に残念がったという。また亀田鵬斎は1783年天明の浅間山の大噴火の際は自分の蔵書を全部売り払い被災者の為に今でいう義援金を贈ったそうだ。


閲覧数:58回0件のコメント

最新記事

すべて表示

Comments


bottom of page