良寛は十六歳で元服し、名を文孝と名乗っていた、まだ大森子陽の塾で学んでいたが、一方においては遊郭での遊びを覚えた。出雲崎では知り合いの目を気にして遠慮がちであったが、地蔵堂(三条市分水町にある)遊郭街へよく出入りしていた。良寛の女好きは有名となり、土地の人々は良寛を見かけると「そら、『橘屋の太郎坊が来た村の娘ら気をつけろ』と言われるほど女郎屋囲いの女好きでとんでもない男で有名だった。良寛は子供たちと遊び,手まり付きのイメージが強いがのちに良寛が僧になった時に若かりし頃の事を詩に愚かであった自分の事を書いている。訳するとこうだ「いつも少年時代には思いっきり遊んで派手なことをしていた。がちょうの羽で織った袖なしの衣をつけ、栗毛の馬にまたがってまた違う遊郭に遊びに行くそんな愚かな自堕落な生活を送っていた。」という詩が残っている。良寛は長男であったが実は良寛には兄がいたのだが幼いころに亡くなっており、良寛は本当は次男であったが長男となった、橘屋は、名主の立場であったためお金持ちで仕事に専念していない生活を送っていたようだ。良寛は一度、十八歳で結婚したが離縁しその後その嫁はその後実家に戻ったが、病死したそうだ※(子供もいたという説もあるが定かでない)、父の以南は良寛が馬鹿正直者で漁師と代官所とトラブルを起こし名主に向いていないであることを分かっていたようで良寛は父以南に「自分は名主に向いていないと父に願いでて良寛の弟が家督を継いだのだがその後代官所より橘屋はおとりつぶしの命を受け一家離散となり橘屋の身内は見附宿に移り住んだ。、良寛は出家した後で、倉敷の円通寺で9年間ほど修行をし倉敷の円通寺で修業し国仙和尚より免許皆伝で寺を持つことが出来たがその後国仙和尚の死により、円通寺を誰が引き継ぐかで問題が起きそれに良寛は円通寺の跡目騒動に関わりたくなかったようで22歳~39歳まで諸国行脚の放浪の旅に出て39歳になってから出雲崎に戻った。
『良寛は若い時は女好き』
更新日:12月19日
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