『渟足柵の謎』
- 橋元雄二
- 2月25日
- 読了時間: 2分
更新日:2月26日

7世紀ごろまで、大和朝廷の支配が及ばない日本の北方に暮らす人々を蝦夷(えみし)と呼んでいました。渟足柵(ぬたりのき)はこうした蝦夷(えみし)の大和朝廷への攻撃に備えた防衛施設であるとともに、都から遠く離れた地方を治める行政施設であったと考えられています。このことは日本書紀に「大化三年(647年)渟足柵を造りて柵戸(きのへ)を置く」と記されており、歴史上、新潟に関する初めての記述とされていますが、このほかにその存在を示すものはなく、日本史上の大きな謎とされてきました。そんな中、平成2年(1990年)に長岡市の八幡林遺跡から「沼垂城」「養老」と記された木簡が見つかり、名前を変えながら養老年間(720年ごろ)に存在していたことを示唆する発見として、渟足柵の信ぴょう性が大きく増しました。渟足柵の場所はいまだに分かっていませんが、元新潟市歴史博物館の小林昌二館長(新潟大学名誉教授)は、その研究成果から、現在新潟市内の東区内にあたる旧沼垂が最も有力と語っています。もし新潟市東区で渟足柵(ぬたりのき)が見つかれば、日本史を塗り替える大発見となります。夢がありますね新潟市は昔から砂丘地帯が多いので昔は信濃川も阿賀野川も暴れ川ですので私が考えるには川に流される事のない地盤のしっかりした、展望が良く蝦夷(えみし)がきてもすぐわかる周りを見渡せる高い場所に作ったのではないでしょうか?個人的考えですが。
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