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『良寛の兄弟について』
良寛の兄弟は7人いたのですが良寛は長男で実家の名主の家督を弟の由之に譲り、良寛は、出家してしまいました。残された良寛の父(以南)は婿養子で仕事もせず俳句ばかり詠んで仕事にも名主の立場に胡坐をかいていたので橘屋も傾き始め、良寛の弟の由之は非常に自信家でそれが災いして地元の人望もなくトラブルを起こしてばかりで代官所から、家財道具も取られ、名主の座も剥奪され所払いで名主の橘屋はここで潰れてしまいました、由之は後年は見附に身を隠した生活をしてたようです.三男の 香は、字を澹斎(たんさい)と号し、非常に博学多才でした。京都へ上り、禁中学師の菅原長親卿の学館で学び、最終的には学頭を務めるほどでした。宮中での詩会にもたびたび出席していたそうで、相当優秀な方でした、残念ながら、香(かおる)は壮年で亡くなっています。寛政10年(1798年)、良寛さんが41歳の時、3月27日に32歳という若さでこの世を去りました。円明院の過去帳には病死と記されていますが、別の記録では良寛の父以南と同じく桂川に身を投じ自死したとも言われています。良寛さんには他にも、末弟の宥澄(ゆうち

橋元雄二
2025年12月8日読了時間: 2分


『新潟県村上市に眠る即身仏』
仏海上人は1828年(文政11年)に村上市で生まれ、山形県の湯殿山で修行を重ねた。62年(文久2年)に即身仏になるための木食行を始め、64年(元治元年)からの3年間は山形県の湯殿山仙人沢に籠もって修行した。 一方、村上藩主の祈願寺として繁栄していた観音寺は、明治に入ると経済的基盤がなくなり没落。困った当時の住職が仏海上人に再建を懇願したところ、仏海上人は資金を集め庫裏を再建した。仏海上人は下山後、観音寺の住職となり、約30年にわたり村上市で布教活動や神社仏閣の再興、貧民救済に尽力したという。その後即身仏になる事を決意し観音寺の境内に自ら即身仏となりました。 1868年に日本では即身仏は禁止となりました。

橋元雄二
2025年12月1日読了時間: 1分


『良寛の母の死』
母、(秀子)の死を知ったのは良寛26歳であった。良寛は故郷に帰らず、ひたむきに倉敷の、玉島という修行していた師である国仙和尚は修行に励む良寛を見かねて翌々年に、東国、巡錫という触れ込みで、良寛を伴い越後におもむいた。このため良寛は,天明(1785年四月二十九日、出雲崎の円明院で行われて母の三回忌追善に加わることが出来た。いかに仏の道の道にいそしんでも、人一倍情にもろい良寛にとって、母を慕う思いは格別だった、らしく、後年、出雲崎の海岸に立つて、佐渡を見るたびに、母をしきりに連想し、ついに佐渡そのものを母と認めて、次の歌を作っている。「たらちねの 母がかたみと 朝夕に 佐渡の島べを 内見つるかも いにしへに かはらぬものは 荒磯海と むかいのに見ゆる 佐渡の島なり』と佐渡の相川地区と出雲崎の良寛の生誕地にある良寛堂の石碑に書かれている。

橋元雄二
2025年11月25日読了時間: 1分


『席順にはこだわらない』
ある家に客があった。そこへちょうど良寛が尋ねて来たので、家人が、「良寛様も良ければ一緒にご相伴下さい」と言われ良寛はそのまま座敷に通り、一番上座の正客の席に付いた。これには、家人も困ってしまったという。 良寛はもともと人間には、身分の違いなどや上下関係などは一切なく膝をつき合わせてしまえば席順なんかどうでも良く身分で人を見ることを嫌いまったく気にしない人であった。

橋元雄二
2025年11月21日読了時間: 1分


『忘れ物対策』
良寛は前にも書いたと思うが記憶力は大変優れていたのだがどこかの家に寄るたびに忘れ物をする人だった。誰かが、良寛さん「持っている物を書いておいて、お帰りの時に読まれてはいかがですか」と教えた。良寛はそれは妙案だと思い、それからは持ち物を紙に書いておき、帰る時に必ず読まれた。その書き付けは今もあり、頭巾,手ぬぐい、鼻紙,扇子などと書かれている。良寛は記憶力は優れていたのだがどこか抜けている性格だったようです。

橋元雄二
2025年11月14日読了時間: 1分


『南天の木』
赤い実を付ける 南天は「難を転じる」という意味から、鬼門(北東)や裏鬼門(南西)に植えると良いとされています。特に白実南天は北東、北、北西が吉とされます。 また、南天のど飴に含まれる南天実乾燥エキスは、「o-メチルドメスチシン」という成分を主としています。この成分が、下記の働きでのどの不調にアプローチします。 気管支を広げる 脳の咳中枢に作用して咳を鎮める これらの効果により、咳や声がれ、のどの痛みや腫れを和らげる効果があるそうです。 10月ごろ に実は赤く熟し、翌年の春まで残ります。

橋元雄二
2025年11月8日読了時間: 1分


『良寛のこだわり』
良寛の書が欲しいと高価なお礼の品を持つて来て頼んでも書を書かない人であった。 良寛の書を欲しいと思えば、まず手毬を贈ってご機嫌を取ると良寛は喜んで書を執って書いたそうである。良寛は子供達と手毬することを好み,どのような珠玉のような高価な品であっても興味を示さなかった。ある村人が尋ねた事があった。「良寛は子供と無心に遊んでいる事でさえ禅の修行に通じる物があると」答えたそうである。

橋元雄二
2025年11月3日読了時間: 1分


『良寛のお布施』
良寛は托鉢をする時、一軒の家を通り過ぎてしまうと、その後から通り過ぎた家の者が布施をしようとしても引き返さなかった。そこで村の人達は、予め時間を計っておいて、道にいる良寛を自分の家に連れて来て布施をした。そうすれば喜んで布施を受けた。しかし良寛は、道で貧しい人を見ると、鉢の中のお布施のお金はもちろん、自分の来ている着物も脱いで与え、後ろも振り返らずに行くのが常であったそうだ。

橋元雄二
2025年11月1日読了時間: 1分


『佐渡ケ島行き佐渡汽船カーフェリーの出航方法がおもしろい』
新潟市の佐渡汽船のカーフェリーの船着場はに日本一長い信濃川に作られており通常は川の上流側に船首が向いて停泊しており何故このような狭い河川に船着き場を作ったのかは私には分かりません。河川ですから上流から土砂が溜まり座礁のリスクが高いし、大型船の船着き場には向かないと思うのだが時々川底の土砂をすくい上げている光景を見る本当なら海側に新しく大きな船着き場を作れば旋廻も必要ないと思うのだが?出港の際は信濃川をカーフェリーを大旋廻して船首を信濃川の河口に船首を旋廻してから出港します。 佐渡汽船カーフェリー の 大 回頭出港 の様子は you tube でご覧いただけます。なかなか見る風景ではないの是非見られてください。私もこの大旋廻の様子を初めて見た時には非常に驚きました。新潟港から佐渡の両津港まで約2時間半で行けます、私は前職出張で月1回のペースで佐渡全島の車道距離210kmを1泊2日かけて車でルート営業所の車を借りて回るのですが佐渡はとても広く帰りは夕方6時に合わせて車を両津港近くの営業所に帰してから手ぶらで乗船すると途端疲れがどっと出る、カーフェリ

橋元雄二
2025年9月9日読了時間: 2分


『佐渡の稲作と棚田の歴史』
佐渡での稲作の始まりは、約2000年前からだとされ、佐渡中央部の湿地帯を中心に行われていました。17世紀に入ると相川金銀山が発見され、ゴールドラッシュとなったことから、全国各地から冨を求めた人々が佐渡をめざし、入口は爆発的に増加しました。急増した人口の食糧供給のため、新田開...

橋元雄二
2025年9月3日読了時間: 1分


『終戦記念日を迎えて』
私の父はゼロ戦を作っていた、当初のゼロ戦の性能は素晴らしかったんだとゼロ戦の話をするとその性能は素晴らしかったと父はこれでもかと言うほどゼロ戦の性能の事を話してくれた。父の実家は鹿児島の知覧に近い所に住んでいたこともあり、特攻隊のゼロ戦の整備を行い若い世代の人たちが志願し特...

橋元雄二
2025年8月17日読了時間: 2分


『矢沢永吉氏と偶然に合う』
ずいぶん前の話である。ホテルで商談が終わり帰ろうとしてエレベーター待ちしている時である黒ずくめの人がぞろぞろとエレベーター前で待っていたので、それ系の人達なのかと内心ビクビクしていたエレベーターが待つている階に止まるとその後ろからエレベーターに乗る人物が中に入って行ったエレ...

橋元雄二
2025年8月7日読了時間: 2分


新潟県小千谷の片貝大花火
片貝まつり(かたかいまつり)とは新潟県小千谷市片貝町で開催される秋祭り。 花火大会、なかでも正四尺玉の打ち上げで全国的に知られる。四尺玉の打ち上げ高度約800m、開花直径約800m、この四尺玉の直径約120cm(約4尺)、重量約420kg、打上用の煙火筒は高さ5.2m...

橋元雄二
2025年8月5日読了時間: 1分


『佐渡薪能のご紹介』
世阿弥 室町幕府の3代将軍足利義満の寵愛を受け、能楽を大成させた世阿弥は、 6代将軍足利義教の怒りにふれ 、1434年に佐渡に流されました,どうも、理由は 世阿弥は結局、実子である元雅に観世大夫の地位を継がせたが、将軍・義持亡き跡を継いだ義教は、音阿弥の方を寵愛しており、絶...

橋元雄二
2025年6月16日読了時間: 1分


『団扇とてあまり丸きは』
良寛の親類で、いとこ同士の夫婦がいた。親しすぎるために、互いに慎むという事がなく、波風の絶える時がなかった。それを聞いた良寛は、ある時,団扇の両側を切り落として扇の形に真似て、表に「うちわとてあまり丸きは見良からず扇の角を少し加えて」という狂歌を書いて与えた。※うちわは”団...

橋元雄二
2025年6月3日読了時間: 1分


『ラピュタ~城に似てると言われる 場所』
鉱山の歴史 鉱山は新潟県にある金属鉱山で、 江戸時代中期に採掘が始まったとされる 。当初は藩が運営していたが三井金属工業に 明治から大正にかけて銅や亜鉛を産出し、近代日本の産業を支えた。 明治期には米国に銅を輸出した記録も残る。...

橋元雄二
2025年6月1日読了時間: 2分


『新潟県角田山登山『灯台コース』
角田山で最も眺めがよく最もきついとも言える灯台コース。 海抜0mからスタートすることに加え前半はアップダウンを繰り返すためなかなか高さを稼げない。途中岩場もあるがそれほど難しくはない。慣れた人は60分程度で登ることも可能だが、そうでない人は頂上まで休憩含め90分~120分ほ...

橋元雄二
2025年5月29日読了時間: 3分


『良寛が香典帳に残した一句』
良寛も年を取りだんだん体も弱り杖を突くようになった。ある日良寛は、三島郡竹の森の星彦右衛門の家を訪ねた。夕食の後、彦右衛門は一緒に隣人の家の風呂をもらいに行った。そして風呂から帰ってくると、良寛は上り口に立てかけていた杖を取って、すぐに帰って行こうとした。それを見た彦右衛門...

橋元雄二
2025年4月7日読了時間: 1分


「小倉百人一首に付いてのお話」
鶯(うぐいす)の泣き声は昔からもてはやされてきたのに、有名な小倉百人一首の歌人達は、百人の一人として誰も鶯の素晴らしさを歌にしていないと言う事は不思議なことだ「鶯」で季は春「万葉集」はじめ「古歌集」にはうぐいすがしばし歌われているが、どうした事か藤原定家の編んだ 「小倉百人...

橋元雄二
2025年4月4日読了時間: 1分


『人の言葉で決心が揺らぐようでは大事な事は成し遂げられない』
他人のアドバイスを参考にするのはいいのです。しかし、人の言葉によって決心が揺らぐようでは、大事な事は成し遂げられません。明治時代から大正時代の作家有島武郎(ありしまたけお)は、「こうと決めたら、どこまでもそれを貫いていけばいい」ということを述べています。「信念の定まらないフ...

橋元雄二
2025年4月4日読了時間: 1分
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